昭和四十九年三月七日 御理解
X第七十三節
変人になれ 変人にならぬと 信心は出来ぬ、変人し云うは 直いことぞ。
変人とは変った人と、あっちはもう変った人だと、変人と云うことは直いことだ、所謂直い人だと、所謂直い人と云うのは、真っ直い人だと、真っ直い人、私は今日は御神前で、御祈念中に、遠近両用の眼鏡を頂いた、遠い所も近い所も、一つの眼鏡で間に合うと云う、今そういう眼鏡がある相ですね、テレビでよく宣伝してます、遠近両用、どういうことであろうかと、思うておりましたら。
今の御本部での信心の在り方と云うか、行き方と云うか、それは余りに近視眼的だ、所謂手許のところとか、いはばあの信心して、おる者とかね、信心のない者から、成程成程と合点の出来る様な、在り方にならなければならないと、云うことを強調致します、信心の無い者から見ても成程あっちは信心しよんなはるけん違うと云はれる様になることだけを、強調してます、ですから所謂目先のこと、を非常に大事に致して居ります。
そすと合楽の場合はどういう事かと、云うと、それと反対の様な感じが致します、いはば遠い所をいつも見つめている、ですから、ですから信心の無い人やら信心の薄い人が見ると、如何にも信心気違いの様に見える、いうならば信心もほどほどにしとかねばとこれは合楽の信心と見た場合です、そういう事を云う人が信者の中にも、沢山ある、と云うことです。
あんなにまで熱中せんでもと、いうならばおかげの世界、目の前にすぐ見えるおかげの世界ではなくて、いうならお徳の世界を、目指しておると云うのが合楽の行き方です。
ですからとても、信心の薄いものやら、おかげさえすればよいと云う人達がです、わかる筈がないです、合楽の信心、又それは実際に、私とても、説明出来ないのです、眼に見えない世界の事ですから、無いともいえない、有るとも云えない。
先日佐田さんところのおじいちゃんの丁度一年の式年祭が御座いました、ですから午前中は、御親戚の方達ばっかり、子供さん達も、または、近い親戚の方達ばっかり皆集まった、お祭りの後に教話を頂いた、私は信心の無い人達の場合あんな御理解を頂いたことは、初めてだった、初めの間は、仏教にこり固まった、佐田家というのは、昔からそういうお家だもんですから、改式をされた事に親戚中の方達がえらい不満であった、なものを持っておった。
特に子供さん達なんかは特に不満を持っておった、今までは、それこそ美事な御仏壇を拝んで居られたのが御仏壇は他所にやってしまって、そして全部金光教式に改式してしまったんですから、ですから人の目とか人の考えを入れるとするとです、もう本当に金光教に改式したいけれども、まあだ親戚がぐずぐず云うとが居るから、と云う様なことで、これが本当の事とわかって、おっても中々出来ない処です。
私は変人とはそういう事だと思うですね、これが本当だと、所謂直い事だと、本当な事だと、今の金光教の信心に依らなければです、いうなら、霊の世界が在るやら無いやらわからんけれども、この世で助かることの出来ない宗教で、あの世で助かる筈がないではないかと、此処を考えただけでも、あの世が在るか無いかわからんけれども、そうしなければ居られないのが、所謂佐田さんところの改式だったんです。
一家中を挙げてのいうならば金光教に凝り固まられた、親戚はそういう訳には、行かない、いうならあの世は、あるか無いかわからないけどもまあ在ると仮定するならばです、魂の世界があるとするならばです、この世でこの魂が助かる、この世で助けて呉れる働きを、持って居る宗教に依って居らなければ、これは大変なことだと、気が付いた訳なんです。
在るか無いかわからんですよ、けどもまああるだろうと思んです、また事実魂の世界を信心なければ、信心は成り立ちません、けど見たことがないのだから、あの世と云うものを、教祖様は、例えばなら死したる後、神に祀られ神になる事を楽しみに信心せよと、はっきり教えて居られますから、在ると、まあ信じる、それが信じられることなら、信じられる程、ならこの世に於て、この魂を救うて貰へる、いうならば、宗教でなければ、頼りない。
只死んだときにお葬式をしたり、御法事をしたり、する事だけ、のための宗教であっては、頼りない、と気付いた訳です、だからこれが本当だ、これが直いんだと、なら合楽の方達でも、それが漠然とではあるけども、それがそう感じておる方が沢山あるだろうけれども、それならまあ親戚の手前もあるし、折角もう、先祖代々、仏教で来とるから、と云うてまだ金光教の信心に改式し切らんでおる、人達が沢山ありましょう。
これはだから近視眼的です、見方が愈目に見えない世界までがわからせて貰える様な、信心、それが本当だと、わからせて頂いたら、それを云うならば、万難を排してでも、実行に移さして頂くと云う事が、そういう信心を、直いと云うのです、信心はね、だから変人にならなければ、だから佐田さんの姉さんやら、おられますとが、例えば佐田恭造、とにかくあの人夫婦は、変わり者だから、変人だから、妙な宗教に改式して、しまったと云うことをいはば陰で云いよんなさるに違いないです、けどそういう事を問題にしないで済む信心こそが直い信心です。
いいえ神様だけが御承知のない世界、又私はそれをそう信心する、信ずるままに、只行動しただけなのだ、成程信心は、変人にならなければ、本当の信心はできません、人の目やら、いうならば、噂やらをです、人の口の端にかかるからと云うて、ぐずぐずしておる様では、それは変人とは云えない、今の金光教の場合なんかそうですね、まあ一般の評ですけれども、金光教は非常に上品だ、実に自然だ、スンナリしている、それが一般の人の定評なのです、ならそういう金光教の中にも合楽がある、なら合楽はどういうことかと云うとです、世間の人達は、そう合点がいかん、いうならば信心の臭いがぷんぷんしている、むんむんしておる。
そこに云うならば、生きた神様の働きと云うものがです、人間の考えと神様の考えがおんなじである筈がない、その佐田さんところのその一年の式年祭の終ったあとの教話の頂いた中に、私はこんなお知らせを頂いた、こんな大きな梨なんです、三吉かなんか云う大きな梨です、梨がこう籠に一杯盛ってある、そして、半分は、成り口がついている、半分は成り口が引き抜いた様にして、ついてない、果物が熟して落ちるときにはもうあれがついてませんよね、と云う様に、方一方は成り口がある、そして、私はすぐ思うた、ははぁ今日はこの信心のない親戚の方達にこのことを教えて、上げねばいけないのだなと、と私は思うたから、今日はね、皆さん、今日の霊様、今日お祭り受けた霊様の、お言伝と思うて聞いて下さいと云うて、聞いてもらいました。
霊様が娘達にも、言伝を私を通して、しておられる、と云うのは、梨と云う事は、無と云う事である、ない、肉体はない、有るやらないやらわからん、なしである、けれども、事実は有るんだと、梨がここに、あるごと、霊の世界は、現存して、おる、確かにある、肉体はなしだけれどもです、実際は梨と云う果物はここに、ある様にあるのだ、そこでこの世でです、私共が天地の御恩、生きても、死んでも天と地は、我が住家と思え、とおっしゃるのだから、その天地の御恩恵を御恩恵たらしめるためにです、御恩恵が受けられる、事のために、その天地との繋がりを持っとかねばならない、そのためには成り口が付いてなければいけない、そこから天地の養分を例えば吸う事になる訳ですね。
どうぞこの世にあるときにです、霊を清めるための心掛けを、持たなければいけないぞと、あの世は必ずあるんだ、霊の世界はあるんだ、魂の世界で本当に、仏教的に云うならば、極楽に行きたいと思うならばこの世にあるときに魂を本当に清めておけよと、あの世では、何や彼やわからんであの世に行ってあって、あの世におることは、わかっておって、養分を吸うあの世に行っておっても、霊が助かる働きをすることを知らない霊がどの位あるか、どうかわからない。
私はいつも家の霊様にお礼を申し上げるときに教徒信徒の方の、教徒と云うのは、此処で改式された方たちの事です、その霊様達には、愈お取り次ぎを頂いて、愈安心の霊として、喜びの霊として、働きの出来る霊としての、精進をなさいませよと、云う、事を申し上げます、合楽に御神縁を頂いておる限りのもうここ二十数年間私がお取り次ぎをした、縁ある合楽に縁ある人達、だからその類型の霊達の全部に、私は申します、折角縁を頂いておるのであるから、金光大神のお取り次ぎをそちらで頂いて、金光大神のお取り次ぎの場と云うのは、厳然として、神界に在るです、神様の世界に、これは私が事実に行って見ておるから、知っておるです、もう厳然として、教祖様がお取り次ぎをしてあるです。
ですからそういう事を知らせて、お取り次ぎを頂いて、これからも日々助かって下さいよ、安心の霊として、喜びの霊として、おかげを頂いて下さいよ、と、云う意味のことをね、特に申します、これは、教徒と云う改式して、しまっている者は、その辺のところの境がない感じ、もうすーっとお取り次ぎを頂ける感じです。
それが皆さんでもです、本気で一つ変人にならせてもろうて、本気で一つこの世で助かることの事実が皆さんの、確信されたらです、金光大神のお取り次ぎによって、こういうおかげが受けられるんだと、これは、形だけの事ではない、心の形の上にも、この様なおかげが頂かれるのであると、云う確信が持てたら、この霊の行方と云うのは、どうかと云うと、あの世である、幽世である。
その幽世に於て、私共がまた続けて、お取り次ぎを頂き乍ら、生神金光大神を目指して、生神を目指して、精進が出来る霊として、おかげを頂かにゃならんです。
お釈迦様の取り次ぎじゃ助からんキリスト様のお取り次ぎじゃ助からん、現在では、それは、現世に表れておる様子を見ればわかるわけです、そうか成程そうだと、わからせて頂くときにです、確信を以て、改式のおかげを頂かせて、誰が何と云うても、それをやり抜いて、行くと云うところに信心は、変人じゃなからんと、変人にならなければ、信心は出来んと云うことです、只御利益だけを云うなら、金光様だけことは、いるまいもの。
そこらのお地蔵様たって、良いでしょうもの、そこのお不動様だって、良いでしょうもん、ね、霊肉を通して、です、あの世この世を通して、助からなければならない、又助ける力も働きがお取り次ぎの働きによって、頂けるんだと、確信したら、そうせねばおられんのです、私はそう云う様な、お話しをさせて頂いたんです、そしたらえらい、打って変った様に、お祭りの後に親戚の方達が変られたです。
もうお直会を頂くときなんかは、もう本当に、それは、楽しい雰囲気の中にお直会を頂きました、ああそげなもんかなと、皆さんが本当に今日はよか話を聞かせて頂きまして、有り難いと、お礼を云はれました、ですからね、そう云うおかげを頂くためには、まず自分が変人にならなければ勿論変人とは直いと云うこと。
昨日は、企画の方達の遅うまでいろいろ話があっとりました、もう十一時過ぎたったでしょう、秋永先生高橋さん文男さん、と三人で、私の部屋にやって参りました、それからまた一せんお茶を飲んでそして寝るられましたけどもです、これなんかもね、もうそんなに遅いですから十一時十二時から一時までも、私の部屋で過ごすと云うことも、翌る朝早うこうして、ご祈念に出て来なならんのだからこれは実に無意味の様である、もう一時間でも、早う寝た方が、本なこつの様に見える。
そこのところを本なごとと見るのが、近視眼的な見方です、なら例えば親先生が行くと喜ぶから一時間二時間は、まだ眠かばってんが、一時間二時間は、親先生にお供えする気持ちでやって来る、そしてそれが本当にお供えになるのがその時間が例えば無駄の様であるけれども、それを無駄ではないと、信じておるから、やって来るのです。
此処の世界は、だからいはば普通信心の薄いもの、または、信心のないものは、そのところは、わからんでしょう、無駄使いをしている様であったり、無駄の事の様であったり、わざわざ十一時をまはって、眠かっに一時間も二時間も、別に何と、云った事もないのに、私が待っているからと云って、やって来る、此処のところの世界をです、私は変人にならなければ出来ん、と思うです。
それからまた出てから私が風呂に入ると、云うもんじゃから、又文男さんが又風呂まで入って来た、何にもならんこと、何べんも、風呂に入って、けれどもね、朧気では、あるけれども、いはばおかげの世界と徳の世界をはっきり知っておる人達です、まあ此処のところ私も説明のしにくい、ですけれども、変人にならなければ出来る事じゃないです。
信心もほどほどにしとかねばと云う人達は、絶対について来きりませんね、程々でも、おかげは、頂きます、結構けどほどほどのその向こうにです、あげん呆気んでんと云うところが私は変人にならなければ出来るんところだと思うです、いうならば秋永先生以下三名のもの私の信心に呆気とるです、又は合楽の信心に呆気とるです、私の信心に呆気とる、人達なんです、だから信心の薄いものにはわかりません、信心の無い者にはわかりません、かえってそれはいけないことの様にしか見えません。
けども徳の世界は、眼に見えないからわかりません、けどそれは何とはなしに、心で感じておる、又は膚で感じておる、そう言う信心、雨が降るから風が吹くから、えらいと思うてはならぬ、その辛抱こそ、身に徳を受けるのだお天気のよい日に、都合のよかときにお参りしても、雨の降る日に参っても、お参りすると云うことは、同じでしょう、けれども雨風をいうなら侵して、人の噂などと云った様なものは、もう問題、眼中にしないでお参りして来る、これは変人でなければ出来ることじゃないです。
雨とか風とかは、人の言葉でも良いのですよ、本当に雨風を侵して、濡れしぼたれてやって来るとするか、けどそこにはね、それこそ歌の文句じゃないけどね。雨の降る日はおじゃるなと云うに、濡れておじゃればなほ可愛い。
と云う様なね、働きを信じなければそれをやってのけられない、今日はもうお天気が悪かけん、今日は御無礼しょうで良いのだ、それでもおかげを受けるのだ、けれども尚可愛いいと、云うのは、おかげの世界から特別に入って行くことは出来ない、私は変人と云うことは、そういうことだと、それが出来れる人だと。
信心のあるものをいはば変人とここで教祖様も、表現なさねばならぬ程に、世の中は間違っている、本当はですからね今私が申します様な人ばっかりになったら、それは変人とは云はないでしょう、今の世の中が狂っておることは、そういうことなんだ、信心をするものが、変人と云はれる時代です、まして信心があってもです、おかげの世界から徳の世界を目指す様な、程しの人なら、愈その変人ぶりを発揮して行かなければです、信心の薄いものでは、わからん。
云うて聞かせてもわからん、だから悪口を云はれても、どういう雨嵐が吹いて来ても、です、それを辛抱して、乗り越えて、行けれる、信心と云う事になって来る、そういう過程に於ては、だから金光様の信心は、素晴らしいと、反対にです、もうあげん呆気る様じゃ、私どもでは出来ん、と云う時代もあるわけなんです、けども愈そこは本当のことがわかるから本当の道を真っ直ぐにです、直く歩いている姿ですから、尊いです。
その向こうにです、成程信心、成程神様じゃなあと、云うおかげを頂けたときが遠近両用の眼鏡をかけさせて頂いたときじゃないかと、思うです、遠近両用の眼鏡と云うことがわかったでしょうか、そこを乗り越えた向こうにです、成程信心しよんなさるけん違う、ああ云うおかげを頂きなさったと、ああ云う徳を受けられたと云う、ときにはじめてです、いうなら先のところも手許のところも、一つになって、いうなら、いうならもうそのときには、もう笑う人はいない、そしる人もない。
成程と皆が合点する、自分も特別な、いうなら次元の違った世界に、信心ことも出来ると云う様な、おかげを頂く、それには、直ぐいと、いはれる、直ぐいとは、真っ直ぐということ、本当のことであるならばです、そこを或る場合は、蹴散らしてでも本当なことに進んで行く邁進して、行く様な、私は勇猛心が信心には、要ると思いますですね。
どうぞ、